北村太郎さんと冬のにおい



以前、北村太郎さんの『樹上の猫』から、「食べもの・飲みもの−−いいにおい」というエッセイを紹介しました(記事はこちら)。春のいいにおいとしてイチゴのショートケーキを挙げていましたが、では冬のいいにおいは何だったろう、とふと思い、この本を開いてみました。




「前の晩晴れ上がったあとの寒い朝」に飲む「熱いコーヒー」のにおい、それともう一つ、「ちょっと意外と思われるかも知れない冬の食べもののいいにおい」として挙げられているのが、野菜の「コマツナ」。なんとなく意外にも思いますが、北村さんの書いた文章を読んでいると、確かに冬のにおい、という気がしてくるので不思議です。



コマツナ自体のにおいではなく、この菜をお鍋で煮るときの、いいにおいです。これも、なぜか冬にぴったりなのです。もちろん、ぼくもアブラアゲなどといっしょに自分の家で煮ますが、寒い夕方、住宅街を歩いていて、どこかの勝手口からこのにおいが漂ってくると、じーんとなってしまって、涙さえこぼれそうになります。何とも人懐かしい思いをさせる、暖かいにおいなのです。


「食べもの・飲みもの−−いいにおい」より(『樹上の猫』)

北村さんは、四季のなかで一番好きなのは冬、と書いています。「冬の暮らし、冬の衣食住が性(しょう)に合っている」そうで、そのなかでもセーターぐらい好ましい衣類はない、とのこと。


むろんセーターは秋口から春さきまで着るものだが、“最盛期”は冬。寒さの程度に合わせて、とっかえひっかえ着るのを、わたくしは冬のささやかな楽しみにしている。セーターのどこがすきなのか、ときかれれば、その手ざわり、匂い、と答えよう。誤解を恐れずにいえば、エロチックな味わいがすきなのである。


「冬の楽しみ」より(『樹上の猫』)


そんな北村さんの詩に、セーターのにおいについて書かれたものがありました。『冬の当直』という第2詩集に収められた「ながい夜」という詩の一節です。この詩を読むと、セーターのにおいをかぐ、という行為のエロチックさ、なまめかしさのようなものが何となく感じられる気がします。ちなみに、『ピアノ線の夢』という詩集の「秋へ」という作品のなかでも、「セーターのにおいがなまめいてくる」という言葉が出てきます。改めて北村さんの詩の素晴らしさに感動すると同時に、本当にセーターのにおいが好きだったんだろうな、と少し可笑しくも感じました。


「におい」をテーマに、北村太郎さんの詩をいろいろと読み直してみても、おもしろいかもしれません。


もうだれも
ぼくのセーターの匂いを
かがないであろう
夜の台所にぶらさがっている
まないたや包丁のように
ぼくの未来はあるであろう
明るい朝のあいさつは
つぶやきのように消えてしまった
無をうちくだくことばは
青いインクで書かれなかった
あしたもまた
ハンカチを忘れて家を出るであろう
力を入れて引き抜いた草が
泥のついた根ごと
机の上に置かれてあるであろう
ぼくは愛した
恐れた
ぼくは恐れるであろう
ぼくは机の上の草を見ているであろう


「ながい夜」より(北村太郎『冬の当直』)