洪水のあとを生きる
港の人が出してきた本のなかに、5年前の今日の出来事を契機として生まれた本が何冊かあります。それらの本のなかから、ふたつだけ、ここに引用しておきます。
三月が また 方舟の上を通りすぎる
幻の雪は降りつづいているが
水仙のにおいだけはあって
そのとき だれもがいっせいに思うのだ
新しい時間と理性がすぐそこにあること
この世とあの世が
いますぐ春の糸に結ばれることを
気づかなかったものが見えてきた
わたしたちの目のもどかしい速度についても
水色の方舟の
行き先はもうわかっていた
わかりすぎるほどわかっていた
始まったばかりの
海原のようなきょうという日を漕いでいく
慌てふためいても、正気を失っても、あやふやとしていても、一個の光となった私は、きっと、一人でも一〇人でも百万人でも果てしなくひとりひとりの名前を呼ばわることでしょう、ゆらゆらとひとりひとりの命の言葉を想うことでしょう、生ある間にやりつくせなかったなら、死んでもやりつづけることでしょう、そのための命なんだから、光は命なんだから……。
光あれ、光あれ、光あれ、
たちきれ、たちきれ、たちきれ、
はじまれ、はじまれ、はじまれ、
はじまりの地で、言葉さきわい、歌さきわい、命さきわう、私たちであれ。
私たちは深く強く祈る光です。
姜信子「はじまれ」より 『はじまれ』所収