廃墟としての本(松浦寿輝『散歩のあいまにこんなことを考えていた』を読んで)


最近、電子書籍化の話題など、本の形態について考える機会が増えてきました。紙に印刷し製本するうえでの費用や作業効率、本を所蔵するうえでの実用性などを考えれば、電子書籍がもたらすメリットはとても大きなものです。とすれば、紙でできた書物はいつか滅びてしまうのだろうか? そして、それでも紙で本をつくることにこだわるのなら、そこにはどんな未来、希望があるのか?


そんなことをぼんやり考えながら本棚にある本をパラパラとめくっていたとき、次の一節を読み、ハッとさせられました。

インターネット時代に入って書物という紙のメディアのアナクロニズムが語られることがときおりあるが、わたしにとって、「本」の空間はとっくのとうに廃墟化していたように思う。もちろん、廃墟とは例外なく美しいものだということを前提としたうえでのはなしだ。「本」を支配しているのは荒涼とした冬枯れの風景であり、その寥々としたさびしさに惹かれるということがなかったなら、わたしは書物のかたちで自分の詩をまとめてみたいなどとは絶えて思わなかったことだろう。書物の原料はパルプであり、つまり「木」であって、要するにわたしたちの手とまなざしは枯死した植物の死骸の上を撫でさすっているのだ。
(「この冬、この本」『散歩のあいまにこんなことを考えていた』より)


松浦寿輝さんのエッセイ集『散歩のあいまにこんなことを考えていた』(文藝春秋)の中の一節です。紙でつくられる本の耐久性や実用性について考えていたときに、思わぬ答えに出合った気がしました。木の死骸でつくられた本はもともと枯れていく運命にあるのであって、そのさびしさにこそ本の美しさがあるのではないか…。


本をつくる立場としてはあまりにロマンチックすぎるかもしれませんが、滅んでいくことの美しさに惹かれる気持ちは、いつも忘れずにいたい。そんなことを思いました。


散歩のあいまにこんなことを考えていた

散歩のあいまにこんなことを考えていた

*この本の挿画は牧野伊三夫さんが手掛けています。