大島渚『絞死刑』




京橋のフィルムセンターで、特集上映「映画監督 大島渚」が開催されています。万田邦敏監督の『再履修 とっても恥ずかしゼミナール』大島渚の『白昼の通り魔』(1966年)『絞死刑』(1968年)『帰って来たヨッパライ』(1968年)について書かれていたので、私もいろいろ見にいきたいと思っています。


先週は『絞死刑』を見てきました。『絞死刑』は1958年に実際に起こった「小松川事件」を題材とした映画です。婦女暴行殺人罪で死刑に処せられたものの、なぜか一切の記憶を失って息を吹き返した在日朝鮮人の青年R。彼に罪の意識を取り戻させるために、拘置所所長、教育部長、教誨師、保安課長、医務官などが、Rの生い立ちや事件のあらましをドラマ仕立てで再現してみせることになります。


そのあらすじを見てもわかるように、なんとも不思議な作品です。いい年をした大人たちが女装をしたり、下手な芝居をうったりする様はとても滑稽です。しかし、映画は次第に「死刑制度の是非」や「絶対悪としての国家」という、政治的・思想的テーマに向かっていくため、単純におもしろいとは言いづらいのです。かと言って、難解というわけでもありません。うまく言えませんが、滑稽な演技や大胆な構成で観客をひきつけながら、知らぬ間に政治や思想という深刻な題材へと無理矢理引きずり込んでいくような、不思議な力強さをもった映画でした。


最後に、万田さんによる、大島渚の映画における強引さについての記述を引用してみます。

物語の明確な図式性と、生身の感情を無視した人物の理念的な造形。普通これをやると映画はとたんに観念の具となり、肉体よりはもっぱら意識に働きかける、抽象的でプロパガンダな、詰まらないものになるのだが、大島渚の映画の場合は、図式と理念が生身をねじ伏せるその強引さが、ほとんど力業とも言うべきものなので、かえってそこに意識よりは肉体の力強さを感じさせ、単なる抽象やプロパガンダを超えた、ひとつのバトルの記録としての面白さと清々しさを獲得しているかに見える。
(『再履修 とっても恥ずかしゼミナール』より)


「映画監督 大島渚」は今月の29日まで行われています(『絞死刑』は22日に上映)。『白昼の通り魔』や、万田さん曰く「ルイス・キャロル的な悪夢の映画」であるという『帰って来たヨッパライ』もぜひ見に行きたいと思います。

http://www.momat.go.jp/FC/NFC_Calendar/2010-1/kaisetsu.html