神谷美恵子と野村一彦

2002年に港の人が出した本に、『会うことは目で愛し合うこと、会わずにいることは魂で愛し合うこと。』という長いタイトルのものがあります。これは、1934年に21歳で亡くなった野村一彦という青年の、18歳のときの日記の一部で、タイトルも一彦の日記の言葉からとられました。
野村一彦は、「銭形平次」などで知られる野村胡堂の息子で、才能豊かで繊細な感性をもった、心優しい青年でした。一彦の親友、前田陽一(のちのフランス文学者)には妹がいました。それが、前田美恵子、つまり神谷美恵子です。
この日記は、美恵子との恋の日記でもあります。とは言っても、ふたりはデートはおろか、言葉を交わすこともほとんどありません。時代や環境のせいもありますが、内気で真面目なふたりには、それが精一杯だったのです。
結局、思いがはっきりと口に出されることのないまま、一彦の死によってふたりは永遠の別れを迎えます。しかし一彦の熱い初恋は、日記にひそやかに綴られていました。せつなさのあまり、今にもこわれそうな言葉が延々と書き連ねられています。そして実は美恵子もその思いをしっかりと受け取っていて、一彦が亡くなったとき彼の両親に「一生結婚しないで生きていく」と語ったと伝えられています。
美恵子が精神病医として弱い人、病める人の傍らに立ち続けようとした、その根底には、若い日のこの喪失体験があるのではないか。そう指摘する人も少数いましたが、この若い日の恋愛について、美恵子自身も周囲の人も口を閉ざしていました。ところが今回、美恵子の最晩年、病のなかで執筆された詩「絶望の門」が初めて発表されたのです。この詩には、一彦との別れの辛さをどのように抱えてきたかが書かれています。
8月に、この「絶望の門」を含む神谷美恵子の詩集『うつわの歌 新版』(みすず書房)が出たことは、港の人にとっても、大きなできごとでした。巻頭には草稿の写真も収められています。
この生誕100年を記念して出されたこの本、自分の死を意識しながら書かれた感謝と信仰の詩篇には、神谷美恵子その人の魂が存在するかのようです。翻訳詩、また生前親交のあったモートン・ブラウン、夫の神谷宣郎の手記も収められています。

みすず書房『うつわの歌』について →

港の人『会うことは目で愛し合うこと、会わずにいることは魂で愛し合うこと。』について →

日経新聞でも紹介されています →